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プロジェクトリスト | 失われた村の風景を記憶しなおす

2020年05月09日更新 報告 【記録③ 村】展覧会 黒川郡大和町升沢のくらし 〈なりわい〉が結ぶ山・村・人 -移転集落の風景を記憶の窓として-

こちらの記事は【記録② 山】展覧会 黒川郡大和町升沢のくらし 〈なりわい〉が結ぶ山・村・人 -移転集落の風景を記憶の窓として-の続きです。

「村」全景写真

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草分けの家

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早坂林右衛門家*と満開の桜。仙台藩御番所の建物であったと伝えられてきた古民家のたたずまい。

〈記録者の言葉〉


 未開の湿地・原野・山林を、はじめて切り開いて新しい村を創った最初の開拓者とその家系を、村の草分け、草伐り、柴伐りなどと呼ぶが、升沢の草分けは、旧家筋とされる升沢集落の早坂四家*である。家系図に類するものは伝えていないが、平家の落人であるという口伝を持つ。
 仙台藩の時代には出羽国へ通じる関所「御番所(ごばんしょ)」が升沢に置かれるが、やがて廃され、首筒・小搦・手錠などの道具を土地の百姓に預け、そのものたちが境目を守っていたという**。早坂四家のうち、林右衛門家と宗右衛門家には、移転時までテクツ(手錠)やカラミ(搦手)などの道具が伝えられていた。早坂家の伝承によれば、かつて升沢集落は升沢川対岸のダンノシタにあり、御番所もその地にあった。やがて飢饉によって升沢川南岸に村をあげて移転し、そのおり御番所屋敷の部材を使って林右衛門家が建てられたという。移転時まで、栗材八寸角、手斧の削り跡が残る柱が見られた。
 御番所廃絶後、林右衛門家には、伊達藩の流木事業の役所が置かれたと考えられる***。また、屋敷に隣接したヒロマは、船形山神社の祭礼でご神体を山中からお迎えするためのおオマス(厨子)を、こもり身を清めて細工するための小屋だったという。

*昭和30年代の当主名によって家名を記す。
**『奥州仙台領遠見記』『領内境目日記』などの古文書の記載による。
***旧升沢分校前の「山霊神 雷神 水神」石塔銘文による。

〈土地の人の言葉〉

PDFファイルでご覧ください → 土地の人の言葉「草分けの家」.pdf

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外の世界へつづく道

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升沢集落、師走の雪景色。升沢集落をつらぬいて船形山登山口までのぼる本道。その両側に村の草分けである旧家のイグネ(屋敷林)の古木が見える。

〈記録者の言葉〉

 いまでこそ升沢の地は、吉岡から延びた一本道が山襞の奥でゆきどまっている。だがかつて、ここからいくつもの道が外の世界へとつづいていた。
 升沢に伊達藩の関所「御番所」が置かれたのも、ここが出羽国へ通じる峠道の街道だったからであり、「御番所」は人や物の出入りを監視する役目を担っていた。ただこの街道はやがて廃れ、明治の初めに下原本木家の者が、自費を投じて村山郡観音寺村までの廃道を再び開いたが*、現在は登山道のみが山へと分け入っている。昭和初め生まれの男たちの若いころは、村山郡銀山まで山仕事の刃物を買いに山越えして歩いたのだという。
 いま自衛隊王城寺原演習場内となっている荒川沿いにも、欠入(かけいり)集落を中継地として色麻へと通じる道があった。風早峠越えの吉田・吉岡への道がぬかるむ悪路だったのにくらべて、こちらの道はなだらかでよい道だった。升沢の人たちはこの道を歩いて炭を欠入まで背負いおろし、この道を歩いて米を欠入から背負いあげた。馬車は色麻から欠入までは通うことができたので、欠入は米と炭とを交換する中継地でもあった。升沢の各集落は、歴史的には加美郡色麻と、荒川と荒川沿いのこの道を介した通商や通婚によって結びついてきた。黒川郡吉岡との強い結びつきは、戦後自衛隊王城寺原演習場の拡張により、色麻への道が閉ざされてからのものだという。
 
*『黒川郡誌』p.403

〈土地の人の言葉〉

PDFファイルでご覧ください → 土地の人の言葉「外の世界へつづく道」.pdf

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いのちの水をひく

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水路で洗い物。水路のところどころに、各家の洗い場があり、屋敷にも引きこまれて水屋(台所)の中も水路が流れる。飲料水などの生活用水から田畑の農業用水としても使われるいのちの水である。

〈記録者の言葉〉


 人が山にかこわれた未開の地に、くらしの根を張り生き抜いていこうとするなら、まずなにより、いのちの糧となる水をなんらかの形で手なずけなければならない。
 升沢地区は、ともに荒川右岸の河岸段丘上に形成された、上流の升沢集落と下流の下原集落(下原・新田・種沢を含む)とからなる。古い開発の歴史を持つ升沢集落は、少なくとも藩政時代から継続した村であることは疑いない。他方下原集落は、明治以降の移住や新田開発にともなう入植により形成された。
 荒川は深い谷を刻んで、谷底から段丘上に揚水することは困難で、水源としては適さない。そこで、升沢では集落北側の段丘上を流れる升沢川に堰を設け、集落まで水路を拓いて導水し、水路は村じゅうの田畑・家々をめぐって、各戸の農業用水や飲料水ほかの生活用水としてまかなわれていた。この一系統の用水路は「代々のもの」と伝えられ、この地に村が開かれるとき、まずいのちの水を引くために水路が拓かれたのであろう。一方升沢川のない下原では、集落南側の山に湧くいくつもの沢水を、数軒ずつで引きこんで用水とし、多系統の水利用がなされていた。

〈土地の人の言葉〉

PDFファイルでご覧ください →  土地の人の言葉「いのちの水をひく」.pdf

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家 山に生きるよりどころ

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旧家筋に当たる家のたたずまい。昭和期の建築で、細部は線の細い白木の建具がしつらえられたが、屋敷全体には重厚な古民家のおもむきが受け継がれている。

 
〈記録者の言葉〉


 人にとって、家屋敷はくらしのよりどころであり、生きていくためのさまざまな営みの場となった。
 仙台藩の「御番所」であったと伝わる升沢の早坂林右衛門家は、解体調査によれば近世後期の建築と推定された。屋敷の北と西はイグネ(屋敷林)の杉林でおおわれ、季節風を防いだ。屋敷の周囲には升沢川からひいたホリッコと呼ばれる水路が巡り、生活用水全般に使われた。母屋の南の地はロウジ(露地)といい、さまざまな作業の場で、そこのタナケ(種池)には田植え前の種籾が浸された。母屋西のヒロマは忌み籠り身を清めて船形山神社祭礼のオマスを細工する小屋であり、その西のキゴヤ(木小屋)には燃料として薪がたくわえられた。

〈土地の人の言葉〉

PDFファイルでご覧ください → 土地の人の言葉「家 山に生きるよりどころ.pdf

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くらしを支える願いと祈り

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 旧家の屋敷跡に残る地蔵と道祖神。屋敷内にあった薬師堂はすでに崩れかけていたが、そのかたわらの地蔵には、新しい手編みの毛糸帽子がかぶせてあった。屋敷を実家とする女性が孫のために毎年編んで供えるという。

〈記録者の言葉〉


 升沢には、土地の人々によって、小さな地区ごとに祀られてきた、草むらのなかの小さな神々があった。種沢集落の端にあった小さな石の祠は熊野さま、升沢集落の旧道わきに数基の石の祠と石碑が並ぶ一画は八幡さまと呼ばれ、ともに藩政時代の文書にも記されている*。
 なかでも山神の石碑はことに多い。男たちにとっての山神は、山仕事の安全と山からの恵みを祈る神であり、女たちにとっては、子宝と安産を願う神であった。
 早坂国男家は、村の宗教者となる人々を生んできた家柄で、明治のころ仙人さまと呼ばれた者が、屋敷内にさまざまな神さまを集め、薬師堂を建て、不思議な力を示して人々を驚かせたという。移転時、屋敷跡には崩れかけた薬師堂と金精神や地蔵などの石塔だけが残っていた。

*『安永風土記』(吉田村)
 

〈土地の人の言葉〉

PDFファイルでご覧ください → 土地の人の言葉「くらしを支える願いと祈り」.pdf

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山と田との巡りを祝う

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 さずかったボンテン*を田の水口に供える。船形山神社の祭礼で争われたボンテンは小さなボンテンに小割りし、田植えのとき田の水口にさして豊作を祈る。

*長い棒や竹の先に白い紙や布を房状につけた神具。厄を払ったり、神への供え物にする。

〈記録者の言葉〉


 升沢集落から船形山登山口まで登る道の右手に小山があり、その頂上に船形山神社の社殿が建つ。
 この神は稲作の神さま「作神(さくがみ)」で、いまは田植え前の五月一日に祭礼がある。信者たちは大型のボンテンを担いで参詣奉納し、ベットウ(別当)と呼ばれる神の守り役が、秘密の場所に隠されていたご神体を山中からお迎えし、「御開帳」として参詣者にその姿を披露する。
 その後、ボンテンバヤイといい、集まった男たちがボンテンを奪い合い、勝ちとったものがそのボンテンをいただいて帰る。さずけられたボンテンは小割りされて小さなボンテンに作り直され、その地域の各農家に配られる。田植え前にそのボンテンを田の水口にさして、米の豊作を祈願するのである。
 祭りには、麓の吉田地区、大和町内の稲作地帯のほか、戦前までは郡域をこえ、栗原郡・桃生郡・宮城郡・名取郡・亘理郡などからも多くの参詣者が集まり、「信徒二千人」とも伝えられる。ボンテンバヤイがあまりに激しく、ボンテンを持ったまま崖を転げ落ちたこともあったという。
 ご神体「お姿」を入れるオマス(厨子)は、かつて升沢の早坂林右衛門家で身を清めた当主によって作られていた。また戦後しばらくまでは、祭りの参加者たちは麓からの山道を歩いて参詣したため、升沢の民家に祭りの前後数日間宿泊した。大きな屋敷を構える旧家で宿をひきうけ、多いときには三百人もの客を泊め、夜はみな座ったまま膝を抱えて寝たと伝えられる。升沢の各家では「船形山」の焼印を押したヘラを大量に作り、店を出して売った。参詣者たちはそれを争って買い求めたという。

〈土地の人の言葉〉

PDFファイルでご覧ください → 土地の人の言葉「山と田との巡りを祝う」.pdf

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展覧会の記録は下記のとおり、6つの記事に分割して掲載しております。ぜひ、ご覧ください。(本記事は③となります)

【記録① 全景〜水切落】展覧会 黒川郡大和町升沢のくらし 〈なりわい〉が結ぶ山・村・人 -移転集落の風景を記憶の窓として-

【記録② 山】展覧会 黒川郡大和町升沢のくらし 〈なりわい〉が結ぶ山・村・人 -移転集落の風景を記憶の窓として-

【記録③ 村】展覧会 黒川郡大和町升沢のくらし 〈なりわい〉が結ぶ山・村・人 -移転集落の風景を記憶の窓として-

【記録④ 人】展覧会 黒川郡大和町升沢のくらし 〈なりわい〉が結ぶ山・村・人 -移転集落の風景を記憶の窓として-

【記録⑤ なりわい】展覧会 黒川郡大和町升沢のくらし 〈なりわい〉が結ぶ山・村・人 -移転集落の風景を記憶の窓として

【記録⑥ 手代木さんのこと 〜 感想】展覧会 黒川郡大和町升沢のくらし 〈なりわい〉が結ぶ山・村・人 -移転集落の風景を記憶の窓として-