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プロジェクトリスト | 失われた村の風景を記憶しなおす

2020年05月09日更新 報告 【記録⑤ なりわい】展覧会 黒川郡大和町升沢のくらし 〈なりわい〉が結ぶ山・村・人 -移転集落の風景を記憶の窓として-

こちらの記事は【記録④ 人】展覧会 黒川郡大和町升沢のくらし 〈なりわい〉が結ぶ山・村・人 -移転集落の風景を記憶の窓として-の続きです。

なりわい

「なりわい」全景写真

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伐る 出す 流す

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 一本ぞりで材木をおろす。一本ぞりに伐り出した材木をつけ、腕木でかじを取りながら雪の斜面をすべりおろす。妻が後ろで介添えする。

〈記録者の言葉〉


 山と生きる人々にとって、薪木・木炭・木工品などにするさまざまな木を伐り、森から運び出す営みは、すべてのなりわいの土台をなす。
 山の村ゆえに豊かな木材資源に恵まれている升沢は、それを大量に運び出すことは、山の村ゆえに難しい。馬車も通えない悪路だったころ、ただ一つの手立てが荒川、花川の流れを使った木流しだった。
 冬場、山に入ってブナの木を伐り薪木にし、山から川を流してきて集落近くの河原にいったん揚げて乾燥させ、五月に雪代水で増水した川に入れ、途中欠入(かけいり)集落で一泊しながら流していき、下流の四竈(しかま)・一の関で揚げて買い手に引き渡す。流していった豊富な薪によって、升沢ではわずかしか穫れない米があがなわれていた。
 この木流しは、仙台藩の時代には藩の事業として行われており*、戦後すぐ王城寺原演習場の拡張で荒川を通れなくなるまで続いた。

*旧升沢分校前の「山霊神」石碑の銘文による。

〈土地の人の言葉〉

PDFファイルでご覧ください → 土地の人の言葉「伐る 出す 流す」.pdf

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打つ こめる 焼く

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 炭窯にこめる木を割る。木炭を焼くために丸太を割って棚に積む。後ろの三角の木組は炭窯の上に架けた屋根。割った木は窯の中に立て並べられる。

〈記録者の言葉〉

 戦後、王城寺原演習場の拡張により、荒川を下る木流しが出来なくなり、薪木のかわりに軽く運びやすい燃料としての木炭生産が主流となる。
 炭焼きは、まず炭焼き窯を土で形作る。そのとき窯を叩きしめるので、窯を打(ぶ)つという。粘土・焼土・水・砂などを配合した土を練り、窯の胴部を叩きかためて成型し、窯内に木を隙間なく詰め、天井部に土を乗せて叩きかためる。焚口部分も石を組んで土で固め、火を焚いて窯を乾燥させながら窯全体を上から叩きかため成型していく。この最初の炭が焼きあがると窯も焼きしまって炭焼窯が完成する。完成した炭窯は、崩れない限り、何回でも木をこめて焚き、炭を焼くことができる。
 昭和三十年代から灯油やガスが普及し、しだいに木炭の需要が減っていき、四十年代には炭焼きをなりわいとするものはごくわずかとなった。

〈土地の人の言葉〉

PDFファイルでご覧ください → 土地の人の言葉「打つ こめる 焼く」.pdf

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挽く 彫る 編む

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 臼彫りの仕事場。升沢で「臼彫りの家」と呼ばれる家に、先代の仕事場・道具・製品などがそのままに残されていた。

〈記録者の言葉〉

 升沢の旧家では、さまざまな木製の生活用品が古くから作られていた。農作業が機械化する昭和三十年代まで広く使われた風呂鍬の木部、正月用の膳に使う折敷(おしき)、胴の彫りこみが特徴的な升沢の臼、船形山神社の祭りで大量に売られた「船形山」印の飯ヘラなどがあった。
 これらの木工品は、それぞれ適した木を、適した時節に伐り出し、適した扱い加工をし、特定の細工をほどこす。それら手仕事の体系が、特定の家に代々に受け継がれてきた。
 こうした販売される木工品のほかに、日常のくらしで使われるさまざまなものが各自の手仕事で作られた。山仕事の道具の柄、雪下ろしのためのユキベラ、材木や炭を運ぶソリ、雪山を歩くカンジキ、山の背負い袋であるコダシなど、山からさまざまな木・蔓・皮を採り、みずから加工して細工された。

〈土地の人の言葉〉

PDFファイルでご覧ください → 土地の人の言葉「挽く 彫る 編む」.pdf

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採る 獲る 捕る

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 山で採ったナメコの加工。ていねいに石突を落として漬物にする。

〈記録者の言葉〉

 升沢では、春の山菜と秋の茸は、季節を感じる珍味ではなく、野菜の不足を補うための重要な食糧であった。そのためその時節に食べるだけではなく、多く採って漬物・塩漬け・干物などにして保存し、野菜の少ない冬の間利用した。
 野生動物の狩猟を「鉄砲撃(ぶ)ち」といい、升沢では多くの男たちが鉄砲撃ちだった。それは肉や毛皮が「金取り」になるというより、なによりくらしの面白み楽しみだったからである。ウサギ・ヤマドリ・バンドリ(ムササビ)、そしてクマを求め、男たちは鉄砲を肩に山に分け入った。
 川魚漁、「魚っこ捕り」は、大人も子どもも大好きな楽しみでもあり、貴重なタンパク源の食糧でもあった。カジカ・ヤマメ・イワナ・フナ・ウナギ・ドジョウ・アユ・アカハラなど魚種も豊富で、とくに夏場に荒川を遡上するサクラマスは、漁の楽しみと脂ののった切身の美味しさから、その魚影が待ちのぞまれた魚だった。

〈土地の人の言葉〉

PDFファイルでご覧ください → 土地の人の言葉「採る 獲る 捕る」.pdf

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掘る 植える 刈る

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 秋、ダイコンを抜く。ダイコンは升沢ではもっとも大切な野菜である。雪のない時期を通して作付けされ、葉は塩漬け、身は漬物や切干にして保存された。

〈記録者の言葉〉

 山間地の升沢では、気温の寒さと雪の深さから、冬越しの作物は作れない。そのため田仕事も畑仕事も、さまざまな制約を受けることになる。
 升沢で昭和三十年代以前から水田を持ち米つくりをしていた家は、旧家筋の数軒にすぎなかった。さらに「田掘り」作業が始まるのは五月半ば、田植えは六月に入ってからで、麓の里より一月ほども遅かった。田にひく山水も冷たく、一反あたりの収穫量は三俵半、多くて六俵と麓の半分ほどである。田を持たないものは、焼いた炭を入れる炭スゴを編むワラ縄のために、田植えや稲刈りの手伝いに来て、報酬として米やワラを手に入れた。これほど升沢の土地は米つくりには厳しかったが、人々は升沢の冷たい山水に適した香りのよい米を見つけ、収量が少ないながらも工夫を重ねて大切に作りつづけてきた。これは升沢米、ニオイイワガと呼ばれる香米で、希少な品種が土地の厳しさゆえに細々と受け継がれていたのである。
 稲作が男の仕事であったのに対して、畑作は女の仕事であった。ダイコン・キュウリ・ハクサイ・ホウレンソウ・ヘラナ・ダイズ・トウモロコシ・カボチャ・サトイモ・ナガイモ・ジャガイモ・ソバなどで、冬越しの野菜は作れないため、冬から春先の野菜はヘラナやハクサイの漬物や山菜でまかなわれた。サトイモの茎は干してカラトリ(ずいき)にし、ダイコンは漬物や切干にし、地面に穴を掘りまとめて埋めて貯蔵した。畑作りにも細かな土地柄があるのか、畑の耕起や畝作りのときの平鍬の使い方は、麓の吉田と升沢とでは、同じ吉田村であってもはっきり違うのだという。

〈土地の人の言葉〉

PDFファイルでご覧ください → 土地の人の言葉「掘る 植える 刈る」.pdf

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展覧会の記録は下記のとおり、6つの記事に分割して掲載しております。ぜひ、ご覧ください。(本記事は⑤となります)

【記録① 全景〜水切落】展覧会 黒川郡大和町升沢のくらし 〈なりわい〉が結ぶ山・村・人 -移転集落の風景を記憶の窓として-

【記録② 山】展覧会 黒川郡大和町升沢のくらし 〈なりわい〉が結ぶ山・村・人 -移転集落の風景を記憶の窓として-

【記録③ 村】展覧会 黒川郡大和町升沢のくらし 〈なりわい〉が結ぶ山・村・人 -移転集落の風景を記憶の窓として-

【記録④ 人】展覧会 黒川郡大和町升沢のくらし 〈なりわい〉が結ぶ山・村・人 -移転集落の風景を記憶の窓として-

【記録⑤ なりわい】展覧会 黒川郡大和町升沢のくらし 〈なりわい〉が結ぶ山・村・人 -移転集落の風景を記憶の窓として

【記録⑥ 手代木さんのこと 〜 感想】展覧会 黒川郡大和町升沢のくらし 〈なりわい〉が結ぶ山・村・人 -移転集落の風景を記憶の窓として-